浮揚電子系の概要
液体ヘリウムや固体ネオン表面に浮かぶ電子の物理と量子応用
私たちの研究室では、液体ヘリウムや固体ネオンの表面の真空中に浮かぶ電子を用いて、基礎的な物理の解明や、それを応用した量子ビットの実現を目指す研究を行っています。
なぜ電子が真空中に浮かぶのか

真空中の電子は液体ヘリウムや固体ネオンなどの低温基板とよばれる物質に近づくと、低温基板の誘電率 \(\epsilon_r\) が真空よりわずかに大きいため、\(+\dfrac{\epsilon_r - 1}{\epsilon_r + 1} e\) という大きさのプラスの電荷が低温基板表面と電子の距離と同じだけ、低温基板内離れた位置に存在するような力が電子に働きます。このプラスの電荷は鏡像電荷と呼ばれます。この鏡像電荷によって、電子は低温基板に引き寄せられるのですが、低温基板の電子親和力は負であるため、電子は低温基板内に侵入することが出来ません。
この侵入障壁は、液体ヘリウム4の場合およそ 1 eV、固体ネオンの場合 0.7 eV 程度です。電子が鏡像電荷から受けるポテンシャルと、この侵入障壁を合わせた全体のポテンシャルを考えると、液面からの電子の距離 \(z\) を鉛直方向に取った場合、その形状は中央の図に示すようになります。このポテンシャル中で \(z\) 方向に量子化された電子の基底状態および第一励起状態の確率密度を、右図に示しています。液体ヘリウム4の場合、この基底状態の電子は平均して低温基板表面から約 10 nm 離れた位置に局在します。固体ネオンの場合は、誘電率が液体ヘリウムよりも大きいため電子の閉じ込めが強くなり、基底状態の平均位置はネオン表面から約 2 nm の位置になります。
[1] E. Y. Andrei, Two-Dimensional Electron Systems: On Helium and Other Cryogenic Substrates (Springer Netherlands, 1997).
[2] Y. Monarkha, K. Kono, Two-Dimensional Coulomb Liquids and Solids (Springer, Berlin, Germany, 2004).
良い低温基板の条件

このように、真空中に電子が浮いた状態を安定に実現できる液体ヘリウムや固体ネオンのような物質を、私たちは「低温基板」と呼んでいます。どのような物質が、真空中に浮かぶ電子を支える良い低温基板になるのか、説明します。
まず一つ目の条件は、基板の比誘電率が 1 よりわずかに大きいことです。これにより、鏡像電荷効果を通じて、電子は基板の表面方向に引き寄せられます。
二つ目の条件は、基板が負の電子親和力を持つことです。これは、電子が基板内部に入り込むことを防ぎ、電子を真空側に押し戻す性質を意味します。
貴ガスは閉殻電子構造を持っているため、電子を強く排斥しやすく、これら二つの条件を自然に満たします。同様に、水素は原子ではなく分子(H₂)として存在し、この水素分子も閉殻電子構造を持つため、同じ条件を満たします。その結果、これまでに液体ヘリウム4、液体ヘリウム3、固体ネオン、固体水素といった基板の表面上で、真空中に浮揚する電子が実験的に観測されています。
[3] M. W. Cole, M. H. Cohen, Phys. Rev. Lett. 23, 1238 (1969).
二つの低温基板の比較

私たちの研究室では、液体ヘリウム表面上に浮揚する電子と、固体ネオン表面上に浮揚する電子という、二つの異なる系を研究しています。ここでは、これら二つの異なる「低温基板」を用いた場合に、物理系にどのような違いが現れるのかを説明します。
まず、液体ヘリウム表面上の電子は、古くから物性物理の研究に用いられてきた系です。液体ヘリウムの表面は非常に一様で清浄であるという特長があり、その結果、物質中の電子と比べて非常に高い移動度を示します。また、多数の電子をほぼ同一の条件で一様に捕捉することが可能です。一方で、液体であるがゆえに、表面が時間的に揺動してしまうという弱点があります。
一方、固体ネオンは固体であるため、表面が時間的に揺動しません。その結果、電子の量子性がより長く保たれることが、近年明らかになってきました。固体ネオン表面上の電子は、これまでほとんど研究されてきませんでしたが、ここ数年で、この系を用いて量子ビットを初めて実現したことで、大きな注目を集めています。ただし、固体であるがゆえに、表面の凹凸が大きいという課題が存在します。
[4] X. Zhou et al., Nature 605, 46 (2022).
[5] X. Zhou et al., Nat. Phys. 20, 116 (2024).
共振器を用いた実験

私たちは、液体ヘリウム表面上に浮揚する電子と、固体ネオン表面上に浮揚する電子という二つの物理系に対して、共振器を用いた実験を行っています。共振器を用いる利点は、電子の運動や状態を高感度かつ非破壊的に読み出せる点にあります。
まず、液体ヘリウム表面上の電子では、非常に多数、具体的にはおよそ \(10^8\) 個の電子を、ほぼ一様な条件で捕捉しました。この多数の電子は個々に振る舞うのではなく、集団として協調的に運動し、プラズモンと呼ばれる集団励起を形成します。このプラズモンとLC共振器とを強く結合させ、多体系の物理を高感度に調べました。ここで用いたLC共振器の共振周波数は約 120 MHz で、RF 領域にあります。
一方、固体ネオン表面上の電子では、固体基板であるため、表面の時間的揺動が抑えられ、電子の量子性が長く保たれるという特長があります。この特長を活かして、私たちは単一電子を用いた量子ビットを実現しました。この場合には、損失の少ない超伝導共振器を用いることで、単一電子の量子状態を高い感度で読み出し・制御することが可能になります。ここで用いた超伝導共振器の共振周波数は約 5 GHz で、マイクロ波領域にあります。
下記で、それぞれについて詳細に説明します。
液体ヘリウム上の電子:プラズモンとLC共振器の強結合

まず、液体ヘリウム表面上の電子によるプラズモンとLC共振器の強結合について説明します。中国科学院の池上さんとの共同研究です。
3つの同心円状の電極を向かい合わせて配置し、その間は 2 mm でキャパシタンスを形成しています。下部電極を約 1 mm 厚の液体ヘリウムに浸し、その表面に \(10^8\) 個の電子を浮揚させます。上部電極に超伝導スパイラルインダクタを接続し、損失の少ない LC 共振器を構成しています。左上図が実際の上部電極表面です。
電子同士は完全に独立ではなく、クーロン相互作用を介して互いに影響し合います。その結果として、電子は \(x,y\) 方向に集団振動し、それが局在プラズモンという準粒子として現れ、RF 信号に起因する振動電場と結合しています。プラズモン周波数と LC 共振器の共振周波数で反交差を観測しました。
一般にプラズモンは金属ナノ粒子などの物質中でも観測され、応用範囲も非常に広いことが知られています。しかし、物質中の電子系では散乱や損失が大きいため、このようにクリーンな共鳴応答を観測することは一般的には困難です。これに対して、真空中に浮揚する電子は極めてクリーンな物理系であり、損失の小さいプラズモン共鳴を観測でき、シミュレーションとの定量的一致も得られました。
[6] A. Jennings et al., arXiv: 2601.22552.
固体ネオン上の電子:単一電子量子ビットの実現

固体ネオン表面上の単一電子を用いた量子ビットの実現について説明します。この研究は、アウグスブルク大学の Monica Benito、ノートルダム大学の Dafei Jin、フロリダ州立大学の Xianjing Zhou、NICT 寺井さんとの共同研究です。
これまでの LC 共振器に代えて、より性能の高い NbTiN 製の超伝導ナノワイヤ共振器を用いました。ナノワイヤ両端が電場の腹となるので、A, B の位置で電子と共振器中のマイクロ波は電気的に強く結合できます。また、材料特性とナノワイヤ構造の双方により磁場に強く、将来的なスピン量子ビット実現にも適しています。ナノワイヤ共振器の両端(A, B)を近づけると、両端が出会うところで電場の強度は最大となります。実際のサンプルには、電子をこの電場強度最大の位置にトラップできるように、灰色で示した DC 電圧を与えられる電極がいくつか周辺に配置されています。このサンプルは IPA 学生の Yiran が作成しました。紫破線の位置で \(x\)-\(z\) 平面の断面図を示します。このサンプルを冷凍機内で冷やした後、固体ネオンを積層し、その上の真空中に単一電子をトラップします。
[7] Y. Tian et al., Phys. Rev. Applied 25, 024011 (2026).
固体ネオン上の電子:測定と量子ビット動作の実証

サンプルは真空容器内に入れられ、冷凍機の最も温度が低い 10 mK プレートに設置されます。マイクロ波は室温からサンプルまでラインを通して伝送され、このラインはチップ上の超伝導共振器の近傍まで接続されています。共振器とインダクティブに結合することで、マイクロ波が共振器に送られ、反射して戻ってきた信号を室温で測定します。この共振器の共振周波数は 5.34456 GHz となります。
共振器に送られたマイクロ波は両端間に振動電場を生じ、電子はその振動電場と結合します。また、共振器に与えられた DC 電圧により、電子は二重井戸型のポテンシャルに閉じ込められます。電子が左側にいる状態を \(\vert L\rangle\)、右側にいる状態を \(\vert R\rangle\) とすると、量子ビット状態 0 と 1 はこの L と R の重ね合わせで表されます。0 と 1 のエネルギー差は L と R の結合度で決まり、周波数に換算すると 5.02 GHz に相当します。したがって、この周波数の駆動マイクロ波を印加することで、\(\vert 0\rangle\) と \(\vert 1\rangle\) の間の状態操作が可能になります。量子ビットの読み出しには、共振周波数 5.34456 GHz の読み出しマイクロ波を用い、その透過係数を測定します。\(\vert 0\rangle \to \vert 1\rangle\) への励起により周波数が約 50 kHz、位相が約 0.05 rad 変化するため、この変化を検出することで量子状態を読み出すことができます。
駆動マイクロ波の照射時間を変化させたところ、量子ビットが \(\vert 0\rangle\) と \(\vert 1\rangle\) の間を往復する様子が観測されました。これにより、量子ビットの動作実証ができました。また、この振動が見えている間は量子性を保持することができているのですが、物質中の電子と比較しても極めて高い量子性を保持できることが分かりました。
執筆: 2026年3月 川上